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[事務所]に関する記事

わが街 わがふるさと JR高槻駅

2014-08-11

わが街 わがふるさと 弁護士 松本七哉
JR高槻駅
駅の大きさって、その駅で乗り降りするお客さんの数で決まりますよね。西日本のJRで、高槻駅って、どれくらいの大きさなのか。乗降客(改札を通る人の数)の数で調べてみました。大手私鉄と接続している駅は、当然、乗降客が多いです。JR西日本でも、天王寺、京橋、鶴橋、新今宮がベスト10に入ります。それを除く西日本(四国、九州を含む)のベスト10はどんなんか。1位は当然大阪です。2位は京都、3位は三ノ宮、4位は博多、5位は広島、6位は神戸。そして、何と7位が高槻なんです。8位は岡山、9位は明石、10位は北新地と続きます。新大阪は、乗り換えは多くても、改札は通らないので、高槻の4分の1程度。
私は、学生時代から(結婚直後の数年を除いて)、毎日、JR高槻駅を利用してきました。新快速が停車するため、大阪まで15分の便利さです。京都へも15分で行けます。この便利さが、住まいとしての高槻の魅力を上げ、乗降客数を増やしているものと思われます。
それでもホームは、上り下りそれぞれ1つずつの島しかないため、混雑がひどいとして、今、JR高槻駅では、上り下りの新快速専用のホームの増設工事中です。ホームが6つになります。現在改札は2箇所にありますが、これが4箇所に増え、新快速に乗るのか、快速や普通に乗るのかで、ホームや改札が変わります。不便になるけど、障碍者には優しい。
市役所に行くと、「どっちも」と書かれたポスターに出会います。都会の便利さも、田舎の自然もどっちもある高槻。市政方針演説で、市長が憲法13条の幸福追及権に言及する高槻。さらに、行政による住民サービスの向上が充実すると、JR高槻駅の乗降客数ももっと増えるかもしれません。

東中光雄弁護士の死去

2014-08-10

東中光雄弁護士の死去について

2014年8月7日、私たちの事務所の所員であり、私たちの事務所の創設者である東中光雄弁護士が死去しました。90歳でした。

東中さんは、戦前、零戦の特攻隊員でしたが、出撃直前に終戦を迎え、その後、司法試験に合格して(司法修習3期)、51年に弁護士登録し、54年に現在の私たちの事務所の前身である東中光雄法律事務所を創設しました(事務所は74年に「関西合同法律事務所」と名称を変更)。東中さんの弁護士活動は、様々な弾圧とのたたかい、市民の暮らしと権利を守るたたかいであり、その伝統は現在の事務所に受け継がれています。また、事務所は西日本を中心に自由法曹団の事務所を創設していく役割を果たしました。

69年12月、東中さんは日本共産党の衆議院議員として当選を果たし、以後、10期30年にわたり衆議院議員を務めました。国会では、議員運営委員・理事を27年間務め、特に自らの戦前の体験から、平和の問題、安保条約反対や憲法を守る論陣では高く評価を受けています。

2000年からは事務所に復帰し、若い弁護士と対等の立場で弁護士活動を行いました。クラボウ人権訴訟では団長を務めました。体調が優れなくなってからも、事務所の会議には必ず参加し、弁護士法1条の「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」との精神に常に立ちかえることを説かれていたことが印象に残っています。

13年には事務所に出てこられることが減りましたが、同年の事務所の忘年会に久しぶりに参加され、楽しいひと時を過ごしました。14年に入り事務所は新しい場所に移転しましたが、その東中さんの新しい執務机には、1度も座られることなく、訃報を聞くことになりました。

安倍内閣の集団的自衛権容認の閣議決定を経て、今まさに日本の平和、憲法9条が正念場を迎えているおり、東中さんが強い危機感をもってこの情勢を眺めていたことは想像に難くありません。いまほど、東中さんの活躍が求められる時期はなかったのではないでしょうか。そのような情勢のなかで死を迎えることの無念は推察するに余りあります。

私たち事務所所員一同は、東中さんの遺志をついで、平和のための取り組みや「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」弁護士としての活動をさらに発展させていく所存です。

関西合同法律事務所所員一同

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わが街 わがふるさと 茨城県

2012-03-11

わが街 わがふるさと 茨城県 弁護士 正木みどり
 茨城県西部の特に何もない小さな町出身です。関東平野と遠方に見える筑波山が原風景でしょうか。「水戸っぽ」を自分では、曲がったことが嫌い、世渡りベタと解釈してます。また子どもの頃、水戸藩主が偕楽園に梅を植えたのは、「愛でる」だけでなく、梅干しを作って必要な事態に備えるためだと誰かから聞いて、妙に納得した記憶があります。
 ところで、昨年の東日本大震災・福島原発事故では、茨城県も被災地です。当日から数日間、実家と連絡が取れず、マスコミでも茨城県の情報は少なく、生きた心地がしませんでした。後から知ったことですが、鉄道も不通、水も出ず、実家の商品は棚から落ちて割れて大損害(保険適用無し)、敷地にひび割れ(地中の水道管にも亀裂)等々、大変だったようです。姪や友人、親戚の住んでいる水戸方面や茨城県北部には放射線の影響も。
 茨城県の東海村は、日本で最初に原子力の火が灯った村として有名で(私は子ども時代誇るべきことと聞いたような記憶です)、現在は多くの原子力関連諸施設が存在し、近隣の市町にも原子力関連施設ができています。1999年東海村で臨界事故が発生していますが、国はまともに教訓を引き出していなかったということでしょう。今こそ「原発ゼロ」の声を、と思います。

「東中光雄という生き方  特攻隊から共産党代議士へ」

2010-06-11

「東中光雄という生き方  特攻隊から共産党代議士へ」
 東中光雄・関西合同法律事務所編著 清風堂書店出版(税込価格1500 円)を出版いたしました。
東中光雄は、弁護士登録60年を迎え、86歳の今も、元気に法廷に立っておりますが、その生き方をまとめたのがこの本です。東中光雄自身のことばを織り込んで書いていますので、読みやすく、示唆にも富んでおります。みなさまにご購読をご案内申し上げます。
ご注文は、電話またはファックスで、関西合同法律事務所あておねがいいたします。
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わが街 わがふるさと 兵庫県西宮市

2008-08-11

わが街 わがふるさと 兵庫県西宮市 弁護士杉島 幸生

小学生まではお隣の西宮市に住んでいました。ですから、「わたしのふるさと」と言われると、西宮がまず頭に浮かびます。そこで、今回は、西宮という言葉から私の記憶に浮かんだことを、つれづれなるままに書きつらねてみたいと思います。
 私が、西宮という言葉で、まず思い出すのは、「西宮の浜」です。今ではすっかり埋め立てられてしまいましたが、私の子どものころはまだ海水浴場だったころの名残がありました。海岸沿いには、子ども向けの釣り堀や、勝海舟が黒船襲来にそなえて建築したと言われる西宮砲台などがあります。今の西宮砲台は外壁が綺麗に化粧され、フェンスで囲まれていますが、当時は積み上げられた石積みの岩肌がむき出しで、柵には大きな穴があり、子どもたちは自由に中に出入りすることができました。入ってみると中側の壁はすすけて真っ黒。建築直後に実際に大砲を撃ってみると建物の中に煙がこもって使い物にならなかったそうです。
 西宮は酒どころ、白雪、多聞、忠勇、大関、白鹿などなど、名だたる酒造会社が立ち並んでいます。当時、小学生の私がお酒を飲めるはずはないのですが、子どもたちの間で、コルク栓でできた酒蓋をメンコのようにして取り合う遊びが大流行し、酒蓋を求めて酒造会社を渡り歩いたことを覚えています。ある日、やんちゃざかりの兄と私で、ある大手メーカの倉庫に忍び込み、床に落ちていた酒蓋を拾い集めていたところ、倉庫係の人に捕まえられたということがありました。怒られると思いきや、その人は私たちが倉庫に忍び込んだ理由を聞くと、笑って段ボール箱一杯の酒蓋をくれました。その中には私たちが目したことのないような銘柄の酒蓋もたくさんあり、翌日、私たち兄弟は、学校中の英雄に・・・もちろん、その日以降、酒蓋の学校への持ち込みが禁止されたのは言うまでもありません。
 西宮戎も忘れられません。1月10日の戎祭りでの化け屋敷や輪投げ、金魚掬いなどもいい思い出です。生徒だけでの参加は禁じられていましたが、そんなことを真面目に聞いているクラスメートはいなかったように思います。
 甲子園球場があるのも西宮です。当時は、年に一度、市内の小学生(高学年)が集まって小連体(小学連合体育大会)という催しがありました。甲子園のグランドでリレーや組体操などをしていると、小学校のグランドとは違った高揚感を感じたものです。
 夙川の桜、香櫨園の浜(私が住んでいたのは香櫨園でした)、「火垂の墓」の舞台となった満池谷(ニテコ池)などもいい思い出です

わが街 わがふるさと 明日香村

2008-01-01

わが街 わがふるさと 奈良県明日香村 弁護士 寺沢勝子

明日香と言えば、石舞台、亀石、鬼のせっちん、鬼のまないた、酒船石、亀形石造物など石造物や、飛鳥寺,岡寺、橘寺、高松塚、キトラ古墳の壁画などが有名ですが、明日香は遺跡の宝庫、冬は、田圃や畑がお休みなので、発掘が行われ 現地説明会が行われます。遺跡の発掘はとても地味な仕事ですが、現地説明会での説明の時が研究員さん達のハレの日、はりきって説明している姿もあって、寒い中ですが、むかしのことが段々分かってくる楽しみに、毎回出かけています。
季節、季節の楽しみも沢山あります。冬は雪道で歩くのもたいへんな中、冬野への道の途中で、2月には、氷のなかに少しだけ出て来た芹を摘んでおひたしにします。
春は桜、菜の花。写真の桜の花の先に見えるのが、石舞台古墳の入口です。花といえば、栢森の先の男淵への途中には山瑠璃草が沢山咲いている崖、めずらしい蛍かづらが毎年咲く場所があり、「こんなところに」と思う川のほとりにりゅうきん花がひっそり咲いています。花だけではありません、冬野への道の途中には、香りのよい山みつば が足の踏み場もないくらい。こごみが沢山とれる川辺もあり、どちらもごまあえにすると最高です。国営飛鳥歴史公園にはささゆり、カサブランカのもとになった豪華な山ゆりも最近植えられ、楽しみがふえています。
明日香ルビ-の名前もあるほどイチゴは名物、4月にもなると明日香の夢市は勿論、道端で1パック200円でとれたてを売っています。夏は飛鳥川の蛍、9月には村中の道々にろうそくが灯される光の回廊、土手と言う土手を真っ赤に染める彼岸花と彼岸花祭り。秋が深くなると、黄金の穂の揺れる田圃、稲淵で田圃を借りて米つくりをしている人達と村人の共同でのかかし祭り。開発が規制されているので、むかしながらの日本の田園風景が残っていますが、冬野など奥へ行くと高齢化、過疎化が進んでいて、人が住んでいるのは数件の家というところもあります。11月には、村の人達の楽しみの農林商工祭り。朝ごはんは食べずに行って村の人たちが思い思いに出したお店で色々なものを食べ、2時頃にもなると、70歳、80歳の細川の4人組のおばあちゃんたちのおでんがちゃんと売り切れたかなあと心配になり、大鍋をのぞき込んでみます。私の夫などは、「売れ残るといけないから、タッパ-でも持っていって、残ったのを買ってばんごはんにしようか。」などと言っていますが、安くておいしいのでよく売れていてその必要はなさそうです。
祭りの終盤は、野菜の品評会と即売会があり、入賞品も含めて一袋(大きな大根が3本も入って)200円。1人3袋(2人では6袋)までですが、野菜が高騰した3年前には、沢山買って帰ってご近所に配りました。
こんな飛鳥の魅力にはまった人達が作っている、飛鳥里山クラブがあり、里山クラブの人達が案内してくれる飛鳥ハイキングも秋には何回か行われます。明日香のことなら大概知っているよと言いたい私達(私と夫)ですが、このハイキングでは、「ええっこんな道があるの。」と驚く山や村の中の道を、毎年案内してくれます。 (明日香村ができて明日香になりました。固有名詞は飛鳥としています。)
明日香は、日本の古里ですよね。    

わが街 わがふるさと 和歌山市

2006-08-11

わが街 わがふるさと 和歌山市  弁護士 中平 史

私のふるさとは、紀州五十五万石の城下町・和歌山市です。残念ながら、お城は1945年7月10日の空襲で焼けてしまい今あるのはコンクリート造りのお城です。でも、虎伏(とらふす)城と呼ばれるお城は気品をたたえています。私は、国道42号線上、真砂丁(まさごちょう)の辺りから眺めたお城がいちばん美しいと思います。 
小さい頃は「新堀二十軒丁(現在の堀止東2丁目)」に住んでいたので城下町のはずれの方だったのだと思いますが、2歳のときに和歌山市の南東部、岡崎地区・井辺の新興住宅地へ引っ越しました。「井辺」と書いて「いんべ」と読みます。何でも『忌部氏』という豪族が住んでいたことに由来する地名だそうです。後に『忌』という字を嫌って表記が改められたと聞いています。実は、この岡崎地区の方が城下町の区域よりも歴史的には圧倒的に古そうです。近所に、「紀伊風土紀の丘」という日本史の教科書にも登場する「岩橋(いわせ)千塚古墳群」を公園にしたところがあり無数の小さな竪穴式・横穴式の古墳が集中しています。春や秋には絶好のハイキングコースです。「ふんどし埴輪」と呼ばれるお相撲さんの埴輪なども展示されています。私の家のすぐ近くにもそれほど高くない蜜柑山があるのですが、ここも前方後円墳なのだそうです。
また、この地域は信仰深いところでもあったようです。紀伊風土紀の丘は「大日山」という大日如来に由来した山に連なっており大日山の中腹にはお堂があります。清水が湧き出ていてポリタンクを持って水を汲みに来ている人で賑わっています。それから、私の家の最寄駅は貴志川線の「神前(こうざき)」という駅なのですが、「日前宮(にちぜんぐう)」の前だから「神前」というのだそうです。ちなみに日前宮の隣には、須井弁護士の出身校の向陽高校があります。
ところで、貴志川線はつい最近まで南海電鉄の電車でした。ところが、廃線計画が持ち上がったのです。沿線住民が廃線反対運動を起こしNHKの『ご近所の底力』に出演して買い取ってくれる鉄道会社を募集しました。岡山県の会社が出資してくれることになり、現在は「わかやま電」を新たに設立して運行されています。
天王寺駅から阪和線に乗り約1時間。和泉山脈のトンネルをいくつか抜けると急に紀ノ川平野の視界が広がります。何時の季節でも晴れていれば底抜けに明るい陽の光が降り注ぎます。
みなさん、この夏も和歌山で日ごろの疲れを癒しませんか。

関西合同法律事務所ニュースが入賞

2005-02-15

関西合同法律事務所ニュースが「機関紙コンテスト」で、佳作で入賞しました

日本機関紙協会大阪府本部から賞状をいただきました
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関西合同法律事務所名称変更のころ 1974年 

2004-05-12

関西合同法律事務所名称変更のころ 1974年 弁護士 寺沢 勝子

事務所にとっては昭和49年(1974年)は事務所創立20周年の記念すべき年であり、20周年をきっかけに当時の法律事務所の名前としては普通であった個人名の事務所、「東中光雄法律事務所」から「関西合同法律事務所」へ事務所名を変更しました。

 昭和49年は「憲法知事さんこんにちわ、公害知事さんさようなら」のスローガンではじまった「憲法を暮らしに生かす」黒田革新府政を存続、発展させるのかが問われた年でもありましたが、昭和50年4月に再選を果たし、黒田革新府政は2期目を迎えることになりました。
 私は昭和45年4月に事務所に入所したので、4年目の年でしたが、「平等・開発・平和」をスローガンとする国際婦人年が1975年6月メキシコで開かれた国際婦人年第1回世界女性会議からスタート、世界行動計画とメキシコ宣言が採択されました。
 ここでは、男は仕事、女は家庭という性別役割分担をなくさねば女性に対する差別はなくならないとされました。74年から大阪では国際婦人年に向けた取組がはじまり、国際婦人年北区の会の連続講座もスタートした。講座を持つだけでなく、関西経営者協会で出産して出社すると10ケ月間も仕事を取り上げられ、毎日、退職を勧められるケースで交渉により退職勧奨を止めさ、仕事を取り戻すという成果もあげました。

 私も担当した昭和46年の三井造船事件で結婚、出産退職制は憲法の趣旨に反して無効という大阪地裁判決が出たため、制度として結婚、出産退職制をとる企業は少なくなりましたが、「子どもの側にいてやらないと子どもがかわいそう」などと言って退職強要をする企業は沢山ありました。経営者を指導する立場にある関経協が退職勧奨をしていたくらいですから。
 女性たちの運動は働き続けることから、賃金差別など労働条件の差別にも向いていき、75年には秋田相互銀行事件で男女別賃金表を適用することは違法との判決が出ました。男女同一労働同一賃金を規定する労基法4条違反として労基署に申告していたのですが、労基署は「頭取が頭を下げているのだから、かんべんしてやってくれ」と言って取り上げようとしなかったのでやむをえず裁判を提起したのです。この件は秋田なので実働はできませんでしたが、勝利記念に秋田杉でできた花瓶を頂いて、今でも使っています。

 国際婦人年北区の会の講座から色々な職場で働く女性たちの賃金差別の実態を聞き取る取組が始まり、81年の男女賃金差別をなくす大阪連絡会へとつながっていき、90年代には間接差別を含む男女昇給、昇格差別・賃金差別をなくす訴訟が提起されていきました。
 国連では1974年から女性差別撤廃条約の起草作業が始まり、1979年第34回国連総会で女性差別撤廃条約が採択されました。女性たちの運動が国際的な拡がりをみせ、実質的な平等の確保へ向けて前進していくきっかけとなった年でもありました。
 また、昭和49年には最高裁が2ケ月更新を続けていた東芝臨時工事件で、期間を定めていても反復更新していれば、期間の定めのない契約に転化するので、正当な理由なく解雇ができないという判決を出しました。これは臨時工の女性たちが提訴していたものですが、当時、増えはじめていたパート、臨時などの不安定雇用労働者にとっては、大変、大きな意義のある最高裁判決でした。

 1980年にはじめた「働く婦人の悩み100番」にはパートの女性たちからの相談が殺到、「パートでも一人前の労働者、労働基準法をはじめとした労働保護法規は適用になる」というあたり前のことを広めるため、パンフ「パートで働くときにー損をしないための12章」を発行、3万部が出て、ようやくパートの権利も認識されるようになりました。
 このように、男女平等については、昨年の女制差別撤廃委員会からきびしく勧告されているようにまだまだな点はあるものの、進んできました。しかし、「平和」については、第1次世界大戦では被害者のうち民間人は5%にすぎなかったのが、第2次世界大戦では50%に増え、1990年代では武力紛争の約80%が民間人、そのうち大部分が女性と子どもという状況になっています。そして、21世紀こそ平和の世紀にと言われていたのに、イラクでは米軍によって毎日、民間人が殺されている状況です。

法律事務所創設のころ 1954年 弁護士東中光雄

2004-04-12

法律事務所創設のころと私  弁護士 東中 光雄

1949年10月、私は司法研修所での前期修習を終えて実務修習地大阪へやってきた。
最初に配属された刑事裁判の安田裁判官室に赴いて、「東中です。」 と挨拶すると、「出身地は?」と聞き返された。変だなと思いながら、「奈良」と答えて、ふと裁判官の机の上を見ると、「被告人東中次夫」の記録が置かれていた。私はギョッとしたのを今も覚えている。(次夫君は私の幼なじみ、従兄弟の子。当時は大阪商大高商部(現大阪市大)の学生で、いわゆる「敦賀壁新聞事件」=(米占領軍の大阪における最初の言論弾圧事件の被告人の一人だったのである。)本人は、一審有罪。控訴審で講和条約免訴。)
私が生の裁判に接することとなった最初の事件が「親族への言論弾圧事件」であって、いわば「除斥」となったが、何とも複雑な心境になったものです。

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。マッカーサー司令部は6月6日、日本共産党幹部、「アカハタ」編集部員の追放、そして戦争突入の翌日、「アカハタ」の発行停止を指令した。一方、GHQと政府の方針で、6月2日以降東京都内で、16日以降は全国で「幻の覚書」(ウイロビー覚書)なるものを口実に、集会のデモを全面的に禁止するとした。大阪で警察の実力行使で一切の集会・デモが踏みつぶされた。
7月に入ると、マッカーサーは警察予備隊の創設に乗り出し、日本再軍備への道を公然と進み始めた。そして、アメリカの援助のもとに総評が結成大会を開き、GHQは新聞協会代表にレッドパージを勧告し、言論機関から「共産党員とその同調者」を追放するという暴挙に出た。
8月30日、GHQが全労連の解散を指令し、9月1日には政府が公務員のレッドパージの方針を決定。かくて全国的にレッドパージの嵐が吹き荒れることになったのです。
これら一連の米日支配権力の公然とした反動的攻勢は平和と民主主義で基本的人権尊重を基本原理とする。ポツダム宣言や日本国憲法を真正面から蹂躙するものであることは、およそ法律家なら何人も否定できないところです。司法修習生の私は、米軍の思想差別(レッドパージ)や言論弾圧に協力し加担する、検察官や裁判官の行動に侮蔑と憤りの念を持たざるを得なくなったのです。

1951年4月、私は弁護士となり、当時共産党衆議院議員であった加藤充さんの法律事務所の、いわば留守番弁護士として活動を開始した。
1951年から52年にかけての弁護活動の特徴は、言論弾圧との戦いであった。とりわけ占領軍の軍事裁判所での戦いは大変だった。しかし、軍国主義の抵抗と民主主義の復活、基本的人権尊重を日本国に国際的に義務づけたポツダム宣言を武器として、意気高く米軍の弾圧とも戦うことができました。

1952年中頃から大衆運動に対する大量弾圧事件が集中的に起こった。全国的には東大ポポロ事件、メーデー事件や大須事件、大阪では5・30集会弾圧事件、6・25吹田事件・枚方事件、生野事件、阿倍野事件等、数百人に達する被逮捕者が続出し、府下一円に分散留置された。公判は、吹田事件週3回、枚方事件週1回、生野・阿倍野事件は各隔週1回。いわゆる公安事件の法廷闘争が人手不足でてんてこ舞いしながら連日進められたのです。

1954年3月、私は上二の加藤法律事務所から独立して、北区兎我野町の東神ビル二階に移り、「労働法律旬報社・関西支社」と共同の東中法律事務所を開設した。
この年、大阪総評は、中小企業労連や印刷、ハイタク労働者らの戦いが大きく前進し、国労大阪が遵法闘争・功労法規制を破って労議行為に立ち上がり、証券取引所に労働組合ができて戦いに立ち上がった。労働運動の大昂揚です。
こうした中で東中法律事務所は、今まで通りいわゆる公安事件に断固取り組むとともに、労働者と労働組合の権利を守る戦い、更に農民組合や借地借家組合・民主団体と共同して戦いを進め、1956年には民主法律協会の結成に尽力し、その事務局を東中事務所に置くこととなったのです。
法律事務所創設50周年を迎え、この半世紀の戦いを振り返って、今後ともいかなる弾圧にも屈せず、あらゆる弾圧と断固戦い、国民の権利と生活を擁護し、国の独立、平和、民主主義を守るための拠点となる事務所として頑張りたいと思うものです。

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アクセス

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大阪市北区西天満4丁目4番13号 三共ビル梅新5階

地下鉄/谷町線・堺筋線 南森町駅
2号出口から 徒歩 約10分

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