皇室典範の改定について その1
2026.8 弁護士 寺 沢 勝 子
1 飛鳥・藤原宮都が世界遺産に認定された。よかった、よかった。理由は豪族による合議制から天皇中心の中央集権体制に移る過程を示す唯一無二の資産であるとされる。これを祝って早速、明日香村の案山子祭りの中心大案山子になぜかでっかい高市首相案山子が登場。世界遺産認定には彼女は関わっていないのにと思うが。
2 私の住んでいる香芝市の二上山の雄山山頂には大津皇子の墓がある。大津皇子は天武天皇と大田皇女(持統天皇の姉)の子で後の持統天皇の子の草壁皇子に次ぐ皇位継承の有力候補で、人望も厚かった。謀反を企てたとして逮捕され翌日処刑(賜死、自宅で自殺させられた)。後の持統天皇が謀反のうわさを聞いて息子のために処刑を指示。ところが、自分の息子の草壁皇子はすぐに病死してしまい、仕方がないので自分が持統天皇として即位。持統天皇は世界遺産に制定された藤原宮に遷都し律令制度を確立したとして評価されている。
3 今国会で皇室典範が改定されてしまった。明治憲法では「皇男子孫これを
継承する」と定めていたが新しい憲法ではこれを省いたのは男女で区別しないという立場だと1946年7月金森国務大臣は答弁している。
2024年10月29日、国連女性差別撤廃委員会は「男系男子」のみに皇位継承を認める皇室典範は女性差別撤廃条約1条、2条に反するとして皇室典範の改正を勧告している。現在世界で26国が王位をもっているが、ヨーロッパ10ケ国では王位継承の法改正がされ、リヒテンシュタインも今年8月15日に法改正したので男子のみは0となった。
皇室典範を変えるとすれば、まず、女性天皇、女系天皇を認める改正だが、今回は全く違った。
4 女性天皇
女性天皇は、推古、皇極、斉明(重祚)、持統、元明、元正、孝謙、称徳(重祚)、明正、後桜町と10代8人いる。14代の仲哀天皇の皇后だった神 功皇后が在位69年間の15代天皇とされていたが、大正15年の皇統諸令 により削除された。神功皇后はお札にも切手にもなっていたのに。
女性天皇はいるが繋ぎにすぎないなどと男系男子派は言うが持統天皇のような実績を上げている天皇もいる。
5 女系天皇
継体天皇(入り婿、女系のはじまり)
女系についても、考古学的に実在がほぼ確認されている最古の天皇、継体天皇(26代)は記紀(古事記と日本書紀)によれば25代武烈天皇には子がなく、近江の国で生まれ越前で育った応神天皇5世孫(と言われるが中間4代は記紀には省略されており、垂仁天皇の女系の8世の子孫との記載も日本書紀にあるという)のヲホドノオウを大伴金村らの豪族が説得して、本人は固辞するも58歳で樟葉宮で即位、武烈天皇の姉の仁賢天皇の皇女の手白香皇女を皇后とした。この2人の間の子が欽明天皇でこの後は現在の天皇まで続いている。ここで王朝が交代したとする説もあり、継体天皇は入り婿の形で女系の始まりともいわれる。
応神天皇
ここからは神話になるが、継体天皇が応神天皇5世孫と言われる応神天皇は実在説と非実在説がある。実在説によっても記紀によると応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子と言われ、仲哀8年9月5日に妊娠、仲哀9年12月14日、筑紫で生まれた。453日(私の計算では465日)お腹の中にいたことになり胎中天皇とも呼ばれるがありえない。2倍歴(記紀の天皇の年齢が長すぎることからの仮説)をとると7ケ月26日で早産となり、保育器もない時代に無理だし戦のため石を陰部に挿入して生むのを遅らせたとされる伝説とも合わない。仲哀天皇は仲哀9年2月5日、筑紫で亡くなっており、八幡宇佐宮御宣託集(1313年)によると、応神天皇は、仲哀天皇の子ではなく、父は住吉大神とされ、別の書物では武内宿禰の子である可能性が高いとされている。神功皇后の子であることは間違いなく、仲哀天皇で一旦男系は途絶え、女系となった。神功皇后は仲哀天皇の長男、次男を兵を送って死に至らしめ、神功(摂政)元年10月摂政となり神功(摂政)3年1月、誉田別尊(ホムタワケノミコト)を太子とした。神功(摂政)69年4月17日、神功皇后は亡くなり、翌年、誉田別尊は71歳で即位し応神天皇となった。継体天皇は応神天皇5世孫とされるが、その応神天皇は女系天皇である。
6 万世一系を強調し皇位を男系男子に限定するのは明治以降の政府であって、根拠はない。皇統をみると当初は双系または女系であったとする研究者の論文もある。
今回の皇室典範の改定の36ないし38親等も離れ約600年も前に現天皇とつながりのあったとされるいわば赤の他人の宮家の男子を養子とし、その養子の男子の子に皇位承継資格を認めるというのは、女性天皇、女系天皇を否定するもので女性に対する差別であり、また、宮家の男子の養子は新たに準皇族と言う身分をつくるもので憲法14条に反する。















