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皇室典範の改定について その2

2026-09-08

   2026.8   弁護士 寺 沢 勝 子

 

1 神話は歴史上の事実とは異なる

今回の皇室典範改定の国会での審議の中で、小林政調会長は「皇位の男系継承は2600年以上にわたる皇室の伝統である。」と述べ、山谷えり子議員は今年は「皇紀2686年」と述べており、まるで神武天皇即位からの神話を前提とする議論を国会で平気でしている。(神武天皇即位は紀元前660年とする。)また、前記のとおり記紀によっても応神天皇は女系である。

天照大神が皇室の祖とされるが、天照大神は女性である。天孫降臨以降「日向三代」を経て磐余彦尊が45歳の時に神武東征を開始したとされるので、天孫降臨は紀元前800年~900年頃ということになる。

記紀の神話では、日本には旧石器時代、縄文時代は存在しないことになっている。

(1)旧石器時代

日本人のルーツをたどると、日本列島に現生人類が現れるのは4~3.5万年前と言われ大陸から様々なハプログループ(特定の共通祖先から受け継がれたDNAの特徴を共有する人々の集団を指す系統グループ。主にミトコンドリアDNAやY染色体DNAの系統解析に用いられ人類の起源や移動の歴史を調べるのに使われる)の人々が渡来して日本人を形成した。現代日本人の3~4割はハプログループDであるがアフリカ北東部から東進して、約3万2000年前に日本列島に到達したとされる。

旧石器時代後期(3万5000年~1万5000年前)の遺跡はカラフトから沖縄まで約1万ケ所見つかっている。土器が使われるようになると縄文時代になり、約1万3000年前の土器が青森県の太平山元遺跡から出土した。これはアジアで最古の土器とされている。

1万8000年~2万年前の旧石器時代の沖縄の港川人骨、約1万4000年前の浜松市の浜北人骨などから旧石器人と縄文人の関係は連続性と継続性がある複雑な関係にあるとされるが、港川のような集団が縄文人の祖先集団とどこかでつながっていた可能性は高いとされている。

(2)縄文時代

続く縄文時代(世界史では新石器時代)は約1万年前の縄文海進により日本は大陸と切離され日本列島が形成され、大陸から様々な人が渡来して日本人を形成した。旧石器人との関係は前述のとおり。発掘された遺跡や貝塚によれば、温暖な気候になって採取・狩猟・漁労を組み合わせた多様な生業が営まれた。穀物の原始的な栽培や堅果類の半栽培も行われ文化圏は「東日本」「九州を除く西日本」「九州」「沖縄」に分かれ、土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化の始まりと竪穴建物・掘立柱建物の普及、定住集落や貝塚の形成などが特徴としてあげられている。

(3)弥生時代 水稲耕作・ムラ・クニの成立

発掘調査の結果、弥生土器の時代に水稲耕作が行われていたこと、大陸の江南から朝鮮半島を経て北九州へ、また直接江南から北九州へ、江南から南西諸島を経て南九州へ稲、稲作が伝来したことが明らかとなった。伝来のルートは諸説あるが、江南から渡来した渡来人が主導し、縄文人と協同で農耕社会を形成していき、渡来人と縄文人が混血して水稲耕作が定着し、水稲農耕を主とした生活によって社会的・文化的変化が起きた時代を弥生時代と認識されるようになった。

稲作は縄文時代後期にも行われていたが、紀元前8~9世紀ころ、水稲耕作技術が大陸から北部九州へ伝来したのが弥生時代の始まりであり、紀元前5世紀ころから始まる弥生前期には日本列島各地に稲作が伝播した。縄文時代では狩猟・採取社会であったので家族という最も小さな社会集団で生活してきた。

水稲耕作は人々が組織立って作業することが必要であり、農具を発明し、水田近くの台地や平野に移住し定住した。米は保存が可能であり高床倉庫に米を貯蓄した。ムラのはじまりである。

米は保存が可能であるため、ムラ内外で貧富の差が生まれ対立の起因となりムラ同士の争いに発展した。戦乱の末、複数のムラを束ねるクニと呼ばれる小国家が誕生した。

吉野ケ里遺跡は弥生前期から終末期までの700年間の遺跡である。紀元前500年から200年までのムラの誕生、紀元前200年から紀元後100年までの争いが激しかった時期の物見櫓などの遺跡、紀元後100年から300年の環濠集落へとクニが発展していった遺跡がみられる。

(4)天孫降臨族は弥生時代の渡来人

畿内の河内平野では紀元前750年~550年頃の間に稲作が始まったとされている。神武天皇即位の紀元前660年は稲作が始まったばかりでムラもできていない。

天孫降臨族(シーボルトによる)は日向の地を出発地点としており、高千穂(宮崎県)、九重山(大分県)、福岡県日向峠とする説があるが、いずれのルートによるにせよ江南からの渡来人ということになる。

(5)クニグニの成立

稲作に適した土地の確保を巡ってムラ同士での争いが生じるようになり、紀元前2~3世紀には複数の小集団(ムラ)が割拠していた状態からより弱い集団が強い集団のもとに集約され、大集団が形成され、紀元前1世紀には強大な首長を擁する「クニ」が形成されていった。「後漢書」にみえる奴国(ナノクニ)は須玖遺跡群とされる。紀元57年に漢委奴国王印が渡された金印が見つかっている。紀元後1世紀から3世紀に入る頃まではムラ攻めと言う形態からより大規模な集団戦闘が行われるようになり、これに備えた環濠集落・高地性集落がつくられた。魏志倭人伝によれば3世紀にいたるまで三十国の小国分立の状態が続いていたとみられる。

2 卑弥呼と台代(とよ)と纏向遺跡

魏志倭人伝によれば3世紀前半に倭の国々における争いを収めるため卑弥呼が倭国の女王として擁立され、卑弥呼の死後、男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女台代(とよ)が王となって再び治まったと記載されている。邪馬台国については「畿内説」と「九州説」があり、私の高校3年生の日本史の授業の一学期は全部「邪馬台大和か九州か」を先生が話して終わった。大学受験を控えているというのに。

桜井市にある纏向遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡であり、唐古、鍵遺跡の十倍の規模で計画的な都市建設がされていたと考えられる遺構が確認されている。この遺跡では全国から集まった土器が検出されており巨大な運河等の土木工事が行われた跡がありヤマト王権の初期の都市であるとされる。邪馬台畿内説を取る研究者からは邪馬台国の最有力候補地とされ、遺跡内にある最古の巨大前方後円墳である箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。記紀には卑弥呼も台代も出てこないが女性である。

3 現在、国旗損壊罪の成立では足りず、不敬罪が検討されているとも言われる。どこまで行くのか注視すべきである。

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