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[労働]に関する記事

CEDAW(女子差別撤廃委員会)の勧告 

2003-08-01

CEDAW(女子差別撤廃委員会)の勧告 ~ 2月と7月ニューヨークへ行って ~

 

弁護士 寺沢勝子

 

1 「条約に合うように世論を変え、法律を変えるのが義務でしょう」。「世論が」「社会的コンセンサスが」と言い訳をする日本政府に対して鋭い質問がされました。ニューヨークの国連本部、7月のCEDAWの審議の時のことです。私も日弁連の代表として審議の傍聴に行ってきました。

2 日本は1985年に女子差別撤廃条約を批准しましたが、4年に1回、国は条約を実施しているかどうかを国連のCEDAWに報告しなければならず、2003年7月に国連・女子差別撤廃委員会(CEDAW)で、第4回、第5回政府報告書の審議が9年ぶりに行われました。
政府報告書では日本の実際の女性のおかれている状況が書かれていないため、日弁連も含めて多くのNGOが実態を知ってほしいとレポートを提出。2003年2月には政府への質問事項を決めるCEDAWのワーキンググループの会合に、「実態はこうだから、こういう質問をしてほしい」と要請に行きました。この時には日本以外からはNGOの参加がなかったので、1時間かけて、日本の実情を話すことができました。

3 7月8日のCEDAWの審議には日本だけでNGO16団体57名が傍聴に行き、前日のCEDAW委員との会合では時間がないのでNGOが調整して各自2分づつ実情と問題点を発言しました。私はセクシュアルハラスメントの規制とドメスティックバイオレンス防止法の不十分な点を指摘しました。

4 7月8日のCEDAWの審議ではNGOが日本の実情と問題点をしっかり話していた効果がてきめんでした。
私が最も印象に残ったのは、条約を実施できていないことに対して政府はいつも、世論を言い訳に使っているのですが、「条約は女性に対する差別のある現状を変えること世論を変えることを国に義務づけている」ことをズバッと指摘されたことです。

5 審議の後、8月にCEDAWの最終コメントが出され、勧告がされました。
この勧告の特徴はこれまでに比べても、何をすべきかをはっきりと示していることです。

① 間接差別の禁止
「直接および間接差別を含む女性に対する差別の定義が国内法に取り込まれることを勧告する。」として、条約にあった差別の定義を法律できちんと規定するように勧告しています。

 日本政府は社会的コンセンサスを理由に検討中としてきましたが、コース別雇用管理制度の下での男女賃金格差、パートタイム労働者、派遣労働者の賃金の低さも差別として指摘して間接差別を禁止する立法をするよう勧告しています。

② 均等法の指針の改正
男女雇用機会均等法の指針は「雇用管理区分ごとに」と定めており、この区分が違うとどんなに差別があっても、区分が違うことを理由に均等法が適用されくなっていますが、この指針を変えるように勧告しています。

③ 配偶者暴力防止法は第1条で暴力の定義を身体的暴力に限っていますが、「様々な形態の暴力を含めることを要請する」としています。

④ 条約について、特に間接差別についての国会議員、司法関係者、法曹一般を対象とした意識啓発のためのキャンペーンを行うことを勧告しています。

⑤ 家庭責任と職業上の責任の両立を可能にする施策の強化・家庭内の仕事の男女間での平等な分担の促進

⑥ 選択議定書の批准は、司法の独立を強化し司法が女性に対する差別を理解するうえでの手助けとなるとして批准を推奨しています。

6 私たちがレポートを準備しニューヨークに出掛けた成果がしっかり勧告に現れているので、是非ともこの内容を実現していきたいと思っています。

A広告代理店事件

2001-02-26

A広告代理店事件(K事件)弁護士 河村  学   

1 本事件は、大手広告代理店に派遣社員として就労を継続してきたK氏が、実質的な解雇の宣告を跳ね返し、
当該 広告代理店の直接雇用を勝ち取った事例である。

2 紛争の経緯
 Kさんの就労の経緯は、本人の言葉によれば次のようなものであった(民主法律時報340号参照)。
 「私は、広告代理店であるA社の関西支社に16年前、業務委嘱(直接雇用)として入社しました。当時、勤続年
数の長い人から先に準社員になれる制度がありましたが、突然廃止され、B社というグループ内の派遣会社に身分
を 移され、11年前に派遣社員として身分変更を余儀なくされました。その際の会社説明会で、「会社の都合によ
り皆さんは派遣社員となりましたが、B社の免許では関西では派遣業務ができないので、A社にて定年まで勤めるこ
とができます」と約束されました。以降11年間、正社員と仕事の内容が同じなのに待遇面ではかなりの格差はあり
ました。しかし、仕事についてはやりがいのある仕事でしたので、会社に対して不満は一切言いませんでした」
 このように、K氏は、A社の都合で、準社員登用慣行の廃止や派遣会社への転籍などが一方的に行われ、また、A社
正社員と比べて半分以下の賃金であることをはじめ、差別された労働条件の下におかれながらも、仕事がしたいとい
う思いで文句も言わず働いてきた。しかるに、A社は非情にも、K氏を他の短期の派遣社員と同列に扱い、2000
年3月末に派遣契約を終了する旨の話をしてきたのである。
 しかも、その派遣会社であるB社は、A社の子会社で、かつ、関西に事業所はなく、就業状況の確認等の連絡は専ら
FAXのみで行うだけで、有給休暇の取得等もA社の職制に届けるなど、労働条件の決定に関する事柄はすべてK氏
とA社との間でなされてきたのであり、B社の関与は全く名ばかりのものであった。

3 闘いの内容
 K氏から相談を受けた派遣研究会では、すぐさま弁護団を結成し、また、K氏と広告ユニオンとをつないで、今後の
方針を協議し、雇用継続を最重要課題として取り組むこととした。
 その後、弁護団から直接雇用を求める内容証明を送り、それと同時に派遣法違反で公共職業安定所への申告を行っ
た。また、広告ユニオンへの加入通知と団交申入をA社に行った。このようなK氏の対応にA社はかなり驚いたよう
で、3月末の期限直前にようやく「2000年4月から6か月間は従前と同様の派遣社員として就労させ、その後は
業務委託とする」との回答があった。
 対策会議では、この提案をのまなければ3月末の雇い止めもあり得るということで対応に苦慮したが、6か月の雇用
約束というだけでは根本解決にならないことと、雇い止め(解雇)されてもいいから徹底的に闘いたいというK氏の
熱意があったことから、あくまで直接雇用を求めていくことを確認した。
 その後、少なくとも6か月は暫定的に現在の状態で推移させるべきことをA社側に申し入れた後、東京の渋谷職安か
らも3月末に雇い止めをすることがないよう指導させ、4月以降は事実上就労を継続した。これに対しA社は9月
30日で派遣契約を終了するとの記載を盛り込んだ雇用契約書への押印を迫ったり、従来認められてきた人事異動の
際の説明会に参加させなかったりとの対応に出てきたが、弁護団はすぐさまこのような雇用契約書への押印は拒否す
る旨内容証明を送ると同時に、A社側の要請を無視して従前どおりの就労を継続した。そして、このような状態で
あったが4月分の賃金も従来通り支払われ、9月までの就労は事実上確かなものになった。
 その後、直用化交渉は難航し、7月に入ってもA社は「9月からは業務委託」という態度を変えようとしなかった。
この間、弁護団では何度か大阪府労働局へ指導を出させるための交渉を行っていたが、暫定的な雇用状態の終期が近
づくに及んで、地位確認訴訟の提起を準備するとの方針を立てた。
 ところが、7月末になって、急速A社から、直接雇用を認める旨の連絡が入った。その背景には、渋谷職安からB社
への調査が入り、K氏の件を解決しなければ業務停止もあり得るとの厳しい指導があったようである。
 8月に入ってからは、具体的契約条件を詰め、結局、60歳定年まで働く嘱託社員として直接雇用を認める。賃金に
ついては、正社員の8割程度で、従来からすれば200万円程度のアップを認める。従来の就労期間については嘱託
社員として経過換算する等の条件で合意することとなった。

4 若干の感想
 本事件は、派遣労働者が長期に派遣先で働いてきた場合の解決方法として、現段階では最も望ましい形で決着ができ
た事例であると思われる。このような決着ができた要因は様々あるが、大きな要因として、解雇の危機に直面したK
氏が、従前より仕事にやりがいを感じ生き生きと就労してきたこと、判断が難しい局面でも「解雇されてもいいから
自分の考えが間違ってないということを認めさせて欲しい」と闘う姿勢を明確にし、かえって周囲を励ますという態
度であったことは特に指摘しておきたいと思う。K氏は現在も従前の職場でバリバリと楽しく働いておられるようで
ある。

5 最後に(K氏自身の感想から)
 「私の勝利です。1999年の11月からの9か月間長いたたかいでしたが、4人の弁護士の方々、広告ユニオンの
方々、ハローワーク、応援をしてくださったA社の正社員の方々、そしてA社の正社員として勤めていながら「会社
は間違っていると思う。気の済むまでたたかえ』と言ってくれた夫。このたくさんの方々が、私のために力を貸して
くださったおかげで勝つことができました。何度か途中で諦めかけましたが、みなさんの励ましでここまでこられ
て、本当に泣き寝入りせずたたかってよかった。2000年10月1日から、嘱託社員になれました。本当にありが
とうございました。」

不動信用金庫事件報告

2000-01-01

不動信用金庫事件報告

弁護士 杉島 幸生

(2000年1月1日事務所ニュースより)

金融ビッグバンと庶民金融

金融ビッグバンと言う言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。海外資本に金融市場を開放することになったので日本の金融機関ももっと体力(資本力)をつけて、海外資本に負けないようにしようということです。
しかし、これは体力のない金融機関はいまのうちにつぶれてもらうということにほかなりません。こうした金融ビッグバンの影響で、今、全国で地方銀行や庶民の金融機関といわれた信用組合・信用金庫の再編・破綻処理があいついでいるのです。
これまで信用組合や信用金庫は、大手都市銀行がなかなか資金を提供しようとしない中小零細企業を対象として金融業務を行ってきました。
ところが金融当局は、①2期連続黒字、②一度の支払遅滞もない、③支払条件の変更がないことが国際基準だと称して、この基準にあわない貸付を不良債権に振り分けてきました。この基準だと多くの中小企業への貸付が不良債権と認定されることとなります。その結果、その企業は即座の返済を迫られたり、これからの融資をうち切られたりすることになってしまいます。

弱者切り捨ての金融再編

不動信用金庫も、金融監督庁の突然の査定の結果、債務超過(破綻状態)と認定されました。そして、不動信用金庫は、その破綻処理の方法として「不動信用金庫の各店舗・資産を10分割したうえで府下10の信用金庫が事業譲渡を受ける。しかし、不良債権と不動信用金庫に働く労働者はひとりも承継しない」という異例のスキームを採用したのです。
この背景には、不動信用金庫に存在しているたたかう労働組合(不動信用金庫従業員組合)の組合員を引き継ぐのはいやだという受け皿信金の不当労働行為もありました。
これによって、不動信用金庫に働く労働者169名は全員解雇されました。その結果、受け皿となった各信用金庫は、不良債権(顧客)と労働者は排除しながら、不動信用金庫の資産をまるまる無償で譲り受けることとなったのです。
また、受け皿信金に引き継がれた債権(顧客)についても、事情のわかる不動信用金庫の労働者がひとりも引き継がれないことから、過去の実績やこれまで築いてきた人間関係は評価されません。
ここでは、「人と人、顔の見えるおつきあい」を売り物としてきた地域の庶民金融機関としての信用金庫の役割はまったく省みられていません。結局、金融ビッグバンは、中小零細企業や労働者を切り捨てることで、生き残り信金の経営基盤を強化しようとするものでしかなかったのです。

たちあがった不動信金労働者

不動信用金庫の労働者たちは、このままでは顧客も自分たちも切り捨てられてしまうという怒りからたちあがりました。不動信用金庫と各受け皿信金の間で結ばれた事業譲渡契約は、雇用や労働組合の存在を無視した違法・無効なものであるとして事業譲渡契約の履行手続の停止を求めて大阪地方裁判所に仮処分の申立を行ったのです。
各信用金庫の経営者たちは事業譲渡という形式をとれば、雇用を承継しまいと不良債権を切り捨てようと自分たちの好き勝手にできるのだという主張を繰り返していますが、このような勝手気ままがゆるされていいはずはありません。
この裁判には、「事業譲渡と雇用承継」「採用の自由・契約の自由の限界」といった法律上の難しい論点が含まれています。しかし、このまま、この方式がまかり通るとなれば、使用者は事業譲渡という形式で自由に労働者を解雇できるし、気に入らない顧客を自由に切り捨てることができることになってしまいかねません。
このような使用者の勝手気ままなやり方を、今後、他の分野においても通用させないためにもこの裁判はぜひとも勝たなくてはなりません。
私も不動信用金庫の原告代理人の一人として、このスキームを阻止するために全力を尽くしています。ぜひともご支援・ご協力をお願いします。

仲立証券争議

1999-10-01

仲立証券争議

弁護士 松本七哉

1、仲立証券は、資本面でも役員人事面でも大阪証券取引所がほぼ完全に支配する、取引所の子会社である。通常の証券会社とは異なり、取引所内にあって、株式等の売買の媒介を業としており、各証券会社が各取引ごとに支払う仲立手数料によって経営を維持してきた。しかし、取引のコンピュータ化が進むなかで、人手を介しての取引がしだいに縮小されていくとともに、証券ビッグバンと呼ばれる証券業界の規制緩和、合理化のなかで、仲立業務自体が不要なものとして排除の対象とされていった。

2、ところが、仲立証券には、大阪証券労働組合に結集する強力な組合があった。そこで、大阪証券取引所は意図的に仲立証券を経営危機に追い込み、強力にリストラを行ったうえで、1999年5月、仲立証券を廃業させ、残った従業員40名を全員解雇させた。このようにして起こったのが仲立証券争議である。解雇の対象となった40名は、全員が大証労組の組合員であり、彼らを北浜の地から放逐するのが取引所のねらいであることは明らかであった。

3、仲立証券自体は清算会社として存続していたが、死に体であり、争議の相手方ははじめから取引所であった。組合員らは、取引所に対して団体交渉を求め、地位確認の訴訟を提起した。従って争点は、団体交渉における使用者性、法人格否認の法理の適否など、使用者概念の拡張にあった。 残念ながら、訴訟等は、最初の団交拒否の事件で、地労委、中労委で勝利命令を勝ち取った以外は、敗訴が連続しているが、争議自体は、取引所の不正事件の追及とも連動させて、現在も意気軒昂に闘われている。

サンヨー電機に勝って職場復帰

1992-02-28

パートのおかあちゃんたちのたたかい

                         弁護士 寺沢 勝子

1987年3月、サンヨー電機は、不況を理由に、1500名パート・定勤社員を一斉に解雇。「争議」と言えば、「何処で葬式あるの」、「ナショナルセンター」と言えば「うちはサンヨーやのに、ナショナル(松下電器)と何の関係があるの」と言っていた15人が、「私たちがテレビやビデオをつくってきたのに、突然クビやなんて許せない」と労働組合を結成して、立ち上がりました。

1990年2月20日、大阪地裁の仮処分決定に続く、1991年10月22日の仮処分異議でも勝訴、大きな運動の拡がりで、1992年2月彼女たちは職場復帰を果たしました。労働組合の「ろ」の字も知らなかった彼女たち、駅前でのビラ配り、雨の日も、風の日も、ものともせず会社前での座り込み、全国から集まった要請署名を毎日、裁判所に届けました。

裁判で勝てても職場に実際に戻るのは難しいのに、彼女たちの成長と運動もさることながら、全国的に拡がった大きな運動のおかげで職場に復帰できた彼女たち。

これで終わらず、その後も運動を続けました。正社員の定年年齢は60歳なのに、定勤社員の雇止め年齢が56歳なのは差別だとして提訴、地裁では負けましたが、高裁で和解が成立、雇止め年齢の差別もなくなることになりました。

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